久遠の情景 1



あんなに哀しい瞳を見たことがない。
寒々と澄み切っていて、全てを達観したような、全てを諦めているようなそんな瞳だった。





先刻まで辺りを照らしていた満月を雲が覆い隠した。
とたんに闇が支配権を奪い取り、美しい夜は妖しく変化した。
ざっ、ざっ・・・・
こんな夜更けに足音が通りに響いた。それはひとりの男。
間もなくばたばたと数人の男達が走って来る音が近づいてきた。足音に気付いたその男は路地に身を滑り込ませ身を隠すと闇にまぎれた。
「ちっ、どこに行きやがった?」
「まだそう遠くへは行ってないはずだ。」
「ああ、あの傷じゃ無理だ。」
「よし、この辺をしらみつぶしに探せ!殺すな、生け捕りにしろ。いいな。」
「はっ」
追っ手の男達は捜索のため各々散らばって行った。足音が徐々に遠ざかる。
それまで息を殺してじっと身を潜めていた男がはーっと息をついた。
このままではじきに見つかる。早く立ち去らねば。
男は腕と肩に傷を負っている。止血を施した手拭いは既に血で真っ赤に染まっていた。
まずい。男は思う。
先程肩に受けた矢にはしびれ薬が塗ってあったらしい。それがだんだん効いてきていた。間もなく身体を動かすことすらできなくなるだろう。
そう思った男はよろよろと立ち上がった。




藤森奏静(ふじもり・そうじょう)には幼い頃の記憶がない。
自分の本当の名も、親のことも全く憶えていないのだ。この名前は行き倒れていた彼を助け、育てた養父である藤森隆青(ふじもり・りゅうせい)が名づけたものだ。
彼はいつも思う。
自分は何者だ?なぜここにいる?
どこにいても何をしていてもこの疑問はいつも彼の根底にあって彼の心に影を落としていた。
そんな思いに押し潰されそうになる時、いつも夢を見るのだ。
青白い満月、暗闇で動く人影、そして最後には紅蓮の炎が全てを焼き尽くす・・・、そんな夢だ。
魘されてはっと目を覚ます。嫌な汗を拭い再び眠りへ逃げようとするが、それは叶わない。
夢での映像が禍々しく繰り返し繰り返し現れてきては、奏静を深く暗いところへ突き落とすのだった。
養父の隆青は薬師であった。普段、奏静は父の助手として働いている。
だが、薬師というのは隆青の表向きの顔である。町人として生活してはいるが、実は彼は公儀の命により内密に調査を行う密偵であった。そして奏静も密偵として訓練をされて育てられたのだった。
もともと運動神経には秀でていたのだろう。青年となった奏静は優秀な隠密として成長していた。父の隆青もさすがに年齢には勝てず、かつての俊敏さも徐々に衰えてきていた。そのため、ほとんどの仕事を奏静が行い、隆青はその段取りや戦略的な部分を受け持つという形となっていた。
順調に任務を遂行していた奏静だったが、そんな彼の前に一人の老人が現われたのは先日のことだった。
その老人はみすぼらしい身なりをしてはいたが、仕種や言葉には威厳が感じられた。左手の腕から甲にかけて古い火傷の痕があって、それがひどく印象に残った。
父の使いで外出していた奏静にどこからともなく現れたその老人は声を掛けてきたのだ。
「薬師のところの方とお見受けいたした。火傷に効く薬があれば少し分けていただけないだろうか?」
突然声を掛けられて奏静は振り返った。その老人は柔らかそうな笑顔を浮かべながら問うてくるが、双眼は鋭く光っていた。
この人物、只者ではない。
奏静は思った。隠密の彼がこの老人が近づいてくる気配を全く感じることができなかったのだ。
「塗り薬ありますよ。今手持ちでほんのわずかしかないのですがよろしいですか?」
そう言って奏静はその老人に薬を手渡した。
「おお、ありがたい。充分じゃよ。・・・これはずいぶん古い傷なんだが、冷えると痛むんじゃ。」着物の袖を少しまくって傷を見せた。
「すまんが、ご覧の通り貧しいので金は払えぬ。・・・かわりと言っちゃなんだがこれをお前様に。」
懐から大切そうに布に包んだものを取り出した。そして静かに包みを開くと奏静へ差し出した。
それは鼈甲(べっこう)の櫛だった。透かし彫りのような美しい花の模様が施されていて、老人が持っているには似つかわしくない、見るからに高価な品だった。
「いえいえ、頂くわけには参りません。どうぞお気使いなく。」
遠慮する奏静に、老人は優しく語りかけた。
「これは昔、わたしがさるお方から頂戴したものですが、ぜひあなたにお持ちになってほしいのですよ。」
「そんな大切なものなら尚更頂戴できません。」
そう言って断る。
だが老人は奏静の手にそれを半ば強引に握らせて、にっこり笑うとそのまま人ごみに紛れていった。
通りに残された奏静は自分の手の中にある櫛を見つめた。
こんな優しい色の櫛をあの人も持っていたっけ・・・。無意識にそんなことを思った。あれは誰だったろう。美しく結い上げられた艶やかな黒髪に鼈甲の柔らかな色がとても映えていた。
雪のように白い手を口元にあてて、くすくすと静かに、だが、幸福そうに笑うひとだった。優しい声で名前を呼ばれると、こちらまで幸せな気分になって・・・・。
突然浮かんだ断片的な風景。どれも遠い昔のことだ。
はっと我に返る。
雑踏の中に一人佇む己という存在が儚い幻のように思えてならなかった。








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