翠玉の季節の中で 番外編 an auroral angel 2 |
ぐぅ・・・・。 空腹を告げる無粋な音で俺達は、いや俺は現実に引き戻された。 俺の腕の中で大人しくしていた彼はもぞもぞと動き出した。 「腹減った・・・・」 俺は呆れてしまった。 「ねぇ。腹減ったの。なんか食べるのちょうだい。」 俺を見上げる彼の目はお菓子を強請る子供のようだ。・・・エサを強請る猫か? 「・・・・おかゆ作ってやるよ。ちょっと待ってろ。」 まだ引っ付いたままの彼を引き剥がして立ち上がろうとした。 しかし、彼はぎゅっと俺に抱きつく力を強める。 「・・・おい。」 「どこ行くの?」 「どこって・・・キッチンに決まってるだろう。」 「・・・うん。」 一向に放してくれる気配は無い。はーっ・・・仕方ない。 俺はため息をついた。 「お前も来い。」 俺はでっかい猫に纏わりつかれながらキッチンへ行き、おかゆを作ってやった。 この猫は猫舌じゃないらしい・・・・半熟のとき卵のはいったおかゆをはふはふ言いながらぺろりとたいらげた。 嫌がる猫を宥めて市販の風邪薬を飲ませ、またずるずると猫を引きずって寝室へと戻った。 薬が効いてきたのだろう。彼は眠そうに目をこすり始めた。 相手の予想できない行動に自分のペースがつかめず、散々振り回されてぐったりしてしまった。だが、寝る前に肝心なことを聞いておかなくては。 「おい。お前のことなんて呼べばいい?」 またさっきのように取り乱されては困るので、質問を変えてみた。 「んー。・・・・・あき。」 「え?・・・ああ、おい。寝るな。」 「な、まえ・・・・・・とし・・あ・・・・き。」 もう限界だったらしい。彼はすうと眠ってしまった。 何だって? 猫にベットを明渡したため、俺はリビングのソファーで夜を明かすこととなった。 ソファーに横になってみたもののなかなか寝付けなかった。 彼は俊彰に容姿がそっくりだっただけでなく、名前も「としあき」というらしい。一体どういうことなんだ?こっちのとしあきは年齢は随分若い。 俊彰には兄弟は居ない。親戚?いや、いくら親戚だといってもあそこまで似ていることはないだろう。 としあきは俊彰よりもずっと子供で素直でまっすぐだ。感情を隠さないし強がったり駆け引きをしたりしない。裏表のないストレートなその感情表現が俺の心を抉る。 俺は今まで虚飾や欲望に満ちた中で生きてきた。下手に気を許したら隙を見せたら突き落とされそうなそんな緊張感の中で。 俊彰とは違うとしあき。 顔が似ているというだけなのに俺の中にとしあきは何の抵抗もなく入ってきて、彼は俺の心の一部を占めてしまった。 間もなく夜が明ける。 東の空は白み始め、世界に光が満ちてくる気配がする。 そして。またいつもと同じ一日が始まるのだ。 俺はのっそりソファーから起き上がった。変な体勢で寝ていたためだろう。ギシギシいう身体をひきずるように寝室へ歩いていきドアを少し開けた。 としあきの規則正しい寝息が聞こえる。 起こさないように静かに近づくと彼の額に手を当ててみる。熱はすっかり下がっていた。 寝室を後にした俺はキッチンへ向かい在り合わせの材料で朝食の準備を始めた。 目が覚めたらまた腹が減ったと騒ぐだろう。 トースト、オムレツ、缶詰を使ったフルーツヨーグルト。 俺はブラックコーヒーを飲みながら新聞に目を通す。IT関連の記事は特に念入りに読む。 ちらりと寝室の方を窺ったが起きてくる気配もない。 食べ終えた俺はとしあきの分をテーブルに残し、そこにメモを置いておいた。 病み上がりの彼をひとり残していくのはなんとなく不安だったが、まさか仕事を休むわけにもいかない。 俺は出社すべくマンションを出た。 「ん、う〜ん。・・・・」 暖かい布団に包まれたほわほわとした感覚は堪らなく心地よい。眠っているわけではないが、眠りから覚めたばかりで感覚がまだ完全に覚醒していないぼーっとした状態でごろごろしているのは彼にとって至福のときであった。 そうこうしているうちにだんだんと目が覚めてきた。仕方なくベットの中で伸びをしながら彼は目を開けた。 「あ、あれ?」 飛び込んできた見慣れない天井にびっくりして今度こそ完全に目が覚めたようだ。 起き上がって部屋を見回す。シンプルな部屋だった。本当に寝るためだけの部屋でベットのほかには余計なものは置いていない。としあきはベットから降りると窓へ近づいてカーテンを開けた。差し込んだ眩しい光に一瞬目がくらんだ。マンションの5階から見下ろす街は明るい光に包まれて輝いているようだった。ベットサイドの時計を振り返ると正午を少し回ったところだった。 としあきはぱたぱたと裸足で寝室を出てリビングへと足を踏み入れた。 「お腹すいた・・・・」 そう呟いてまっすぐキッチンへ向かう。と、ダイニングテーブルの上に用意されていた食事を見つけた。そばにはメモとキーが置かれてある。としあきは添えられているメモを手にとった。 『おはよう。具合はどうだ?少しだが朝食を用意した。もし、帰るのであればキーは郵便受けに入れておいてほしい。』 メモは少し癖はあるが力強く綺麗な文字で書かれていた。それからキーを手にとってみる。ひんやりとした感触のそれは彼の美しい手の中できらりと輝いた。としあきはぎゅっと掌を閉じてそれを握り締めた。まるで掌全体でその冷たさを感じるように。そして静かに手を開いて、キーをテーブルの上に置いた。 としあきは早速作ってもらった食事を頂くことにした。冷蔵庫からミルクを取り出しカップへ注いでレンジで温めた。 「いただきま〜す。」 としあきの体調はすっかりよくなったようだ。本人も自分が病人だったことなどすっかり忘れている様子で、デザートのヨーグルトまで平らげる。 「ごちそうさまでした。・・・・っと、片づけくらいはしたほうがいいよね。」 食べ終えた食器をシンクヘ運びかちゃかちゃと洗うと、水切り篭へ入れておいた。あとは自然乾燥にしちゃおう。 空腹が満たされると、好奇心がムクムクと湧き上がった。主はいないが、勝手に探検させてもらうことにしたらしい。 キッチンと寝室はさっき一通り見たので、リビングから見ることにした。インテリアはシンプルに統一されており、家具やソファーも落ち着いた色使いでまとまっている。 「うわぁ。」 さっきは空腹を満たすことに意識がいっていたため気がつかなかったが、リビングの四隅の天井にはそれぞれ黒い大きなスピーカーがぶら下がっていた。CDショップの天井についているほどの大きさだ。フラットテレビの上にも同じメーカーのセンタースピーカーが置いてあった。もちろんウーハーも同メーカー品だ。テレビラックにもいろいろなボタンがたくさんついている大きいアンプをはじめ、DVDプレーヤーなどの機械が入っている。 としあきは天井を見上げて呟く。 「すっご〜い。どうやって使うかは全然わかんないや。でも、このスピーカーで音楽聴いたらすごいだろうなぁ・・・。」 次に寝室の向かいの部屋へと足を踏み入れた。この部屋はどうやら書斎らしい。2つの本棚にはたくさんの本がぎっしり詰まっている。大部分はIT関係の書籍なのだろう。デスクにはパソコンのほかにプリンター、スキャナーなどの周辺機器がすべて揃っていた。 「こんなところで仕事してるんだ〜。へー。」 チェアーに腰掛けてデスクの上の書類をぱらぱら捲ってみる。 と、デスクの隅に伏せられて置かれている写真立てを見つけた。 「・・・なんだろう?」 手にとって裏返した。そこにはやさしい笑顔の女の人と10歳くらいの男の子が写っていた。 「・・・ああ。これお母さんかな。」 二人はどことなく似ており親子であることは明確であった。そして、その少年は箭内の面影があった。 としあきはもとのようにそれを伏せて戻そうとした。しかし、彼は少し考えるとその写真立てをきちんと立てて机の右端に静かに置いた。 その後もとしあきは洗面所、浴室、トイレに至るまで全ての部屋を見て回ったのだった。 「箭内さん、どうかなさったんですか?」 「え?」 事務の女の子に声をかけられて我に返った。 「大丈夫ですか?」 「あ。ああ、平気。」 「ぼーっとしてますけど、何かありました?」 「いや、なんでもない。」 「そうですか。はい、お茶どうぞ。」 彼女からカップを受け取って一口飲んだ。 どうしてもとしあきが気になる。今日は早く帰ったほうがいいな。 俺は定時になると用事があるといって早々に帰宅した。はらぺこのでっかい猫が泣き喚くだろうと思い、夕飯の買い物までして。 今日の俺は自分でわかるほど変だ。昨日拾ったとしあき。彼が今も部屋にいるとは限らないのに。俺が出社した後、目覚めた彼はそのまま帰ってしまっているのかも知れないのに。 玄関のドアには鍵が掛かっていた。そこで、ポケットから今朝持って出たスペアキーを取り出してドアを開けた。 部屋は夕焼けに照らされて赤く染まっていた。電気をつけなくてもまだ大丈夫なくらいの明るさであった。 しーんと静まり返った部屋。 リビングにも寝室にもとしあきはいなかった。 帰ったのだろうか?それとも俺は夢を見ていたのかもしれない。初めからとしあきという青年なんていなかったのではないか・・・・・。 そんな思いがよぎった。 徐々に夕闇が支配し始めた部屋の中で俺はただ立ち尽くしていた。 |
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