翠玉の季節の中で









数ヶ月早ければその美しさに思わず立ち止まったことだろう。
彼は少々残念な思いを感じながら、見事な桜並木の中を歩いていた。
桜の木々は青々と葉を茂らせ、優雅な花弁が咲き誇っていたことなど感じられぬほどであった。



先任の女性教師の産休の間、臨時教師として大河内純一(おおこうちじゅんいち)はこの私立高校で教鞭をとることとなった。
臨時とはいえ、子供のころから憧れていた「教師」として教壇に立てる喜びはひとしおだ。
昨今は教職資格をとっても、教師として採用され実際に教鞭を取れる者はほんのわずかなのだから。
純一自身も、大学卒業後就職浪人となった。
だが、純一は幼いころから憧れていた教師になることをあきらめきれず、その間3年をアメリカ留学へ費やして語学に磨きをかけたのだ。
友人たちは厳しい現実のなかで、「教育」とはかけ離れた一般企業へと就職していったが。



まったく、この不景気なんとかならんかね。
中年オヤジのようにつぶやいてタバコをふかしているのは、その大河内純一(26歳英語教師)その人である。
新任教師が職員室で一服するのも憚れて、彼は屋上の隅っこで一息ついているところだ。
1限目のクラスが終わり、午後の5限までは授業がない。もう少し休んだら資料作らなくちゃだな。まぁ、午前中には出来上がるだろう。
紫煙が立ち昇る中、純一はぼんやりと今日の仕事の段取りを組んでいた。
ちらりと腕時計に目をやる。
10時を少しばかり回ったところだ。2限目が始まったばかりなので、学校中シーンと静まりかえっている。
どれ、そろそろ戻るか。
携帯灰皿にタバコをねじ込んで揉み消すと、純一はドアの方へ歩き出した。
さわやかな5月の風が吹きぬけた。



職員室へ向かい歩いていた純一が廊下の角を曲がった瞬間トンッと何かにぶつかった。
衝撃は少なかったが、突然の出来事に驚いて目を向けると、目の前に男子生徒が座り込んでいた。
「すまんっ。大丈夫だったか?」
すぐにぶつかったことを詫びた。
「・・・いえ、すいません。・・・。」俯いたまま小さな声で返事が返ってくる。
「?」
それほど強くぶつかったわけでもないのに、少年は一向に立ち上がる気配はない。
「おい?」
不信に思った純一は声を掛け少年の目の前に屈み込んだ。
「だ、だいじょ・・・・」
少年は最後まで言葉を発することができず、前へ倒れ込んだ。
あわてて抱きとめると、苦しそうに肩で息をしている。ぶるぶると震え、額に手を当ててみると予想以上に熱かった。
うわっ、すげー熱い。マジやばいかも。
自力で立ち上がることもできない少年を抱き上げると、純一はさっきとは逆へ曲がり保健室へと向かった。
「渡辺先生!」
保健医の先生の名前を呼んで、ドアを開けた。
ちっ、席はずしかよ。タイミングわりーな。
純一は少年をベットに寝かせ、顎の下まで布団を掛けてやる。すぐに、職員室へ電話し保健医を捜す。
保健医の渡辺は職員室にいた。純一が状況を説明すると急いで戻ってきた。
「風邪だと思いますが、熱が高いですね。早退させて自宅で寝かせたほうがいいでしょう。この生徒の家に連絡入れて早退の手配して来ますから。少しの間お願いしますね。」
そう言うと、渡辺は保健室を出て行った。
本来であれば、保健医である渡辺が残って自分が早退の手配を行うのであろうが、まだ慣れていない純一より渡辺自身で行なったほうが能率がいいとの判断らしい。
純一は氷水で濡らしたタオルを少年の額にのせてやる。
ぜいぜいと息をして、ずいぶん苦しそうだ。
冷やしたタオルは熱の所為ですぐに温くなってしまう。
純一はこまめにタオルを冷やしては額にのせることを繰り返した。



さっきはバタバタして気が付かなかったが、少年はまるで人形のように美しかった。
美しい鼻梁、白い肌、さらさらと癖のない黒髪、その整った容姿は清らかで綺麗だった。
男に綺麗なんて言葉はおかしいと思うが、彼は本当に綺麗なのだ。
そういえばさっき抱き上げた時、随分軽かったな。身体も華奢だった。
そんなことを思っていると、少年がうっすらと目を開けた。熱っぽい視線で周りを見回し、純一を見つけると・・・
「とお・・・る・・・」
消え入りそうな声で呟いた。うっすら笑みを浮かべるとまたすぅと眠ってしまった。
「え??」







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