Sweet Poison 3




あの人がここにいる・・・。
雅弥は胸の高鳴りをどうにか抑えて、いつもと変わらぬよう平静を装っていた。雅弥たち技術員に知らされたのは3日前だ。今回のこの人事により保守部門には大きな変革をもたらされることとなった。
あまりにも急な動きに彼らは戸惑いを見せたが、方針となった以上その体制に従うほかはなかった。
今回のような急な動きに一介の技術員である雅弥もなにか抜き差しならぬものを感じた。自分が入社してからこんなことは一度だってなかったのだから。
だが、それ以上に心を占めているものは翔との再会だった。あれほど逢いたいと望んでいた人と再会できるのに、自分はなぜこんなに動揺しているのだろう?





その瞬間、すべての音が消え去った。無音の世界に佇む。
雅弥には回りの音は一切聴こえていない。関口の話も、時折隣で話し掛けてくる同僚の吉井の声も・・・・。
雅弥の目は関口の隣にいる翔の姿だけを捉えていた。逸らすことなどできない。あの時の様々な想い出が溢れ出した。それまでいつも優しく決して雅弥を傷つけることのなかった想い出たちはとたんにその姿を変えた。今まで鮮やかと感じていたが、決してそうではなかったのだ。現実に彼の姿を捉えた今、この瞬間に、更に生々しくもっと鮮やかに変わっていく。
雅弥ははっきりと気がついた。この2年もの間、自分は生きてなどいなかった。心が死んだまま、身体だけが動いていたようなものだ。何の意味もなかったのだ。
2年ぶりの彼はあの頃のままだった。柔らかな空気が彼を包んでいるのがよくわかる。少し痩せたようにも見えるが、その凛とした姿は美しいものだった。
その朝、技術部のオフィスには珍しく多くの技術員が集まっていた。普段彼らは仕事の性質上、朝から客先を次々と訪問して作業をこなすため、朝や日中の時間にはオフィスにいないことが多い。ひどい場合は何日もオフィスへ出社しないこともあるのだ。新組織となった今、今後の方針・計画の説明のために彼らは集められたのだった。
関口から紹介された翔は挨拶をするために少し前へ出て口を開く。
閉ざされていた雅弥の聴覚は翔の声のみを拾う。
「結城翔です。本日よりスキルアップマネージャーとしてこちらにお世話になります。よろしくお願いします。」
透き通るその声に、雅弥の心は震えた。
夢じゃない。何度も何度も記憶の中で聞いた声よりずっと近くで感じ取ることができる。
雅弥の中に数メートルの距離でさえももどかしいほど、翔に触れたいという思いが湧き上がる。自分のこの手で触れたい。彼の柔らかな髪に、頬に、唇に・・・・。もっと確実なゆるぎない確信を雅弥は求め始めたのだ。
挨拶を終えた時に、翔が雅弥のいる方に視線を向けた。
彼が俺を見ている。
翔の視界に自分が入っているのを感じて、とたんに雅弥の体はカッと熱を熱を帯びた。鼓動が大きく鳴り響き己が飲み込まれそうになる。
ほんの一瞬交差した二人の視線だったが、それを先に外したのは翔のほうだった。
彼は雅弥から目を伏せるようにすっと視線を外すと、関口の後方へ静かに移動してしまったのだ。そして再び関口が社員に向かって話し始める。もちろん雅弥の耳にはその声は届かない。
チクリ・・・。
雅弥は心臓に針が突き刺さったような鋭い痛みを感じた。小さなその傷からは血が滲み、周りは赤く染まってみるみる広がっていく。
彼のそんな些細な行動にすら傷ついてしまう自分が情けない。それほどまでに焦がれていたのか。求めていたのか。
ずっと心のどこかで願っていたのだ。勝手に思い込んでいた。自分が恋焦がれているのと同じくらいに、同じ強さで彼も自分を想ってくれていることを。自分との別れに傷ついてくれていることを。
傷口から広がった赤い血はやがてどす黒い色へと変色していく・・・。
俺達は終わったのだ。あの時で。
あの短い期間の中で咲き急いだ俺達の花は散ってしまった。今では落ちたその花弁も枯れ果てているのだ。
この2年間で彼は自分の進むべき道を歩んできたのだろう。真面目な彼のことだ。他のメンバーを気遣い、励ましながら。
・・・そう。苦しんでいた俺に手を差し伸べてくれたように。暖かな眼差しで見守ってくれるように。
こんなにも求めているのに!こんなにも苦しんでいるのに!
行き場の無い激情はさらに強まり、雅弥の身体の中を暴れ回る。それに身体も精神も支配されてしまったら・・・、そう考えた雅弥はぞくりとした。
愚かな俺は自分を満たすため、彼をめちゃくちゃにするだろう。彼が泣き喚いても、嘆き悲しんでも・・・・。きっと自分はそうしてしまうに違いない。
彼は優しい。そして俺はその優しさにつけこんでしまう。
徐々に浮き彫りになり始めた己の内なる醜い感情に雅弥は衝撃を受けた。
彼を苦しめないために、彼の障害にならないために。そして・・・・、彼を壊してしまわないように。
種を残すこともできずに枯れてしまった俺達の花。何も生み出さなかった俺達の関係。
「・・・・というわけで、今後君たちの活動を期待する。以上だ、解散。」
関口の話が終わったのだろう。
技術員は仕事に戻るべく準備を始めた中、雅弥は関口と話しながら部屋を出て行く翔を見つめたままだった。
「おい、ぼけっとしてないで行こうぜ。」
吉田にぽんと肩を叩かれた。
「あ、ああ。」
雅弥も客先へ向かうための準備に取り掛かりながら思う。
過去を忘れ、未来へ向かって懸命に進んでいく彼の邪魔は決してしたくはない。この自分の苦しみは彼の幸福なのだ。
忘れることができればもっと楽だった。だが、自分はそれができなかったし、したくはなかった。自分を苦しめ苦痛を与えることでもいいんだ。彼が幸福なら。彼が笑っていられるのなら。
それが俺の望みなのだから・・・。









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