Sweet Poison 5 |
凛とした冷気に満ちた朝の空気が翔の精神を辛うじて抑えている。その空気に身を晒して、翔は静かにただ目を閉じて佇むのだった。 関口の告白が翔に与えた衝撃は決して小さなものではなかった。差し迫る己の命の終わりを見据えた男の目は穏やかで澄んでいた。彼とて初めからそう落ち着いていたわけではないはずだ。突きつけられた厳しい現実に悩み苦しみ、己の運命を嘆いたはずだ。だが、彼はそれらを受け止め乗り越えたのだろう。 「結局、自分の運命の前に諦めたに過ぎない。」彼のことをそう言う人もいるだろうが、翔は違うと思うのだ。関口は決して悲嘆に暮れ諦めたのではない。彼は最期のそのときまで自分自身の生き方を貫くことを決めたのだと。 家庭よりも仕事を選んだ昔の自分を思い返す。その結果、妻は娘を連れてその薄情な男の元を去って行った。数日間の徹夜を終え、ようやく帰宅した男を待っていたのは1通の手紙と妻の部分が記入された離婚届だった。その手紙にはそれまで我慢していたであろう妻の淋しい思いが切々と書かれていた。そして、もう限界だと・・・。 彼女たちの荷物はすでになく、妻の決意はだいぶ前からされていたことが伺えた。男は不思議と取り乱しはしなかった。心のどこかでこうなることはわかっていたのかもしれない。妻がずっと前から淋しい思いをしているのもわかっていたのだ。 ああ、馬鹿な自分は彼女のために何もしてやらないまま、ずっと彼女を苦しめ続けた。そして、挙句の果てに彼女を追い込んで最後につらい決断をさせてしまった。 それ以降、彼女とはもちろんのこと娘にも会ってはいない。・・・こんな男、会わせる顔もないが。 元気でやっているだろう。事務的な連絡のため送られてきた手紙で何度かやり取りをした際に、必ず娘の写真が同封されていた。彼女のその気遣いは本当に有り難かった。そのため、娘の成長を確認することができたのだから。 娘は自分を恨んでいるだろうか。自分の家族をも守れなかったこの愚かな男を。何にもしてやることの無かった薄情な父親のことを。 季節は移り変わり、この北の地に早くも本格的な冬が訪れた。遠くに見える山々は雪を纏って白く染まり、より一層荘厳な姿を見せていた。吹き付ける木枯らしは程なく冷たく肌を刺すような北風となった。冷たい空気は非常に澄んでいて、夜空には数え切れないほどの星が瞬いているのをくっきり見ることができた。 再会を果たした翔と雅弥だったが、もはや以前の二人戻ることはなかった。同じ部署内であるため顔を合わせることはしばしばであったが、共に挨拶を交わす程度で私的な話をすることは一度もなかった。 二人は互いに己の心の内を気付かれないよう平静を保つことに徹していた。 翔は懸命に仕事に打ち込む雅弥の障害とならないように、ずっと忘れることのできなかった想いを押し込めて上司としての姿勢を貫いていた。 また、雅弥のほうもあくまで仕事の上司として接してくる翔の態度に些か傷つきながらも、己の感情は最早届くことの無い過去のものなのだという事実を受け入れざるを得なく、これが自分達にとって最良の関係なのだと懸命に思い込ませていた。 二人は互いに惹かれあう想いを抱きながらも、それぞれの想いに翻弄され傷つくことを怖れていた。 真っ白な雪が降る。 二人の間に降り積もる。 純白の雪はすべてを覆い隠していく。その世界は時が止まって何もかもが無になるような、冷たく美しい風景に思えた。空から次々と舞い落ちる白い花弁は音もなく降り積もり、静寂のベールが辺りを包み込んでいった。 彼と顔を合わせることになる日は複雑な心境になる。 何日もオフィスに寄ることもなく家と客先との往復で仕事を行い続けることが、雅弥を内心ほっとさせていた。 逢いたくないわけではない。 ただ、どうしていいのかわからなくなるのだ。自分の感情と彼のためだと言いきかせる気持ちで雅弥の心が押し潰されそうになった。逢いたいのに逃げ出したくなる。触れたいのに恐くなる。見つめていたいのに気付いてほしくない。こんなことを思っている自分を知られたくないのにこの苦しみを感じて欲しい。 矛盾に満ちた思いが次々と明らかになっていき、その葛藤は雅弥の神経を徐々に削っていく。だが、雅弥はそれから目を背けることができない。それは、彼が翔のためだと、彼にとっての幸福だと信じている苦しみから逃れようなどとは思っていないからであった。 ただ、時に叫び出したくなる衝動に駆られることがある。彼の姿を捉えた瞬間、この気持ちを全部吐き出してしまいたくなるのだ。もちろん、そんなことできるはずもないのに。 でも。 もしそれができるとしたら、そのとき彼はどうするのだろう。なんと言うだろう。・・・どんな目で俺を見るのだろう。 そんなことできるはずないではないか。彼に苦渋しかもたらさないのは明白だ。馬鹿なことを考えたものだ。彼に絶対に知られてはならないから苦しいのに。伝えられないから悲しいのに。 いつも堂々巡りの考えは雅弥にとっても深い絶望しか与えない。そのことは雅弥も充分に解っているのに考えてしまうのだ。 そして、それは己の非力や傲慢の表れだとその度に自責の念を感じるのであった。 |
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