Sweet Poison 6 |
そんな翔と雅弥の思いをよそに、彼らを取り巻く周りの状況は微妙に変化していった。 翔は少し前から新人技術員の教育及びOJTを担当していた。翔の異動と同時期にこの部署へ配属となっていたその新人、細川諒(ほそかわ・まこと)は自分から保守部門への異動を希望した人物だった。彼は大学での知識を活かし、入社当初からサーバー構築やインターネットも含めたネットワーク構築の部署に配属されていた。彼の知識はネットワーク分野だけにとどまらず、プログラム設計・開発はもちろんのことアーキテクチャーに至るまで幅広いものであった。あえて彼の不足点を挙げるとすれば、それは「経験」であった。 細川は少々童顔で実年齢よりも5歳くらいは若く見えるだろう。私服を着ていれば学生に見間違えられるに違いない。細身で一見頼りない優男に見えるかもしれない。が、高校からサッカーを続けているというその体躯は意外にも強靭である。 また、仕事に取り組む時の表情は引き締まり、眼差しは厳しく光り、ぐっと大人びた顔に変えるのだ。 彼は非常に優秀であった。類まれなセンスと幅広い知識で全てを吸収していた。その柔軟さに翔は目を見張るほどであった。新人教育担当としてかつて様々な研修に携わった経験のある翔ですら、彼ほど優秀な人材を見たことはなかったのだ。彼に対して翔が初めから最後まで指導することはなかった。少しの指針とポイントを指し示す時点で、細川は翔の言わんとしていること、自分がどうしなければならないか、どこの部分をおさえておかなければならないかを把握するのだ。しかも、それを完璧に。 そんな中、翔は優秀で素質ある人材を教育できるという喜びを見出していた。翔は自分が指導した以上の成果を細川の成長に見出すことができていた。だが、実際のところ、細川の教育に没頭することで雅弥への思いを懸命に忘れようとしていたともいえる。細川という優秀な人材の存在は翔にとって救いであったのは言うまでも無い。それまで以上に仕事にのめり込ませてくれるのだから・・・。翔本人もそのやり方が正しいとは決して思ってはいなかった。しかし、そうでもしなければ・・・・。 「細川、来週の予定だが・・・・」 朝、昨日対応分の作業報告書を持ってきた細川を、翔は呼び止めた。 細川は自分の計画をしっかり頭に入れているようで、翔のその言葉だけで瞬時に回答をした。 「ああ、今月初めにいただいた計画表にあった件ですね。了解してます。」 「そうか。確か、本社での汎用機サーバー研修で2日間・・・だったな。」 「ええ。」 「ちょうどその日、俺も本社へ行く。細川も部長への挨拶に同行してくれ。それから、2日目の研修には俺も顔出すから。」 「わかりました。じゃあ、リーダーの分も一緒に手配しておきますね、ホテル。」 「ああ、頼む。・・・今日のサーバー予防保守の件、昼前には出るからな。準備しておいてくれ。」 「わかりました。」 そう答えると細川は軽く会釈をしてしなやかに身を翻し、自分の席へ戻っていった。 翔は現時点での報告を津山に直に行おうと思っていた。ここへ異動が決まった時、数ヶ月に一度くらいの割合で報告に訪れるよう言われていたのだ。 正直なところ、津山に会いたかった。あの穏やかな表情で自分の話をきいてほしいと思った。 関口からの告白の動揺を隠していたが、本当のところこれからどうしていけば一番いいのかの見当もつかないくらい、翔の心は乱れていた。津山に助言を求めたいと思っていたのだ。彼なら一番いい方法を知っているだろう。 たった数ヶ月前のことなのに随分昔のことのように思える。かつての自分の場所を訪れることに不思議な感覚を抱いていた。 ノックをして招き入れられたそこには、あの穏やかな笑みがあった。 「御無沙汰しておりました。」 翔は会うなりそう声を掛けた。なんとも言えないほっとした気持ちが湧き上がった。 「元気そうだな。・・・おお、彼かい?新人の技術員というのは。」 津山は翔の後ろに立っている細川に気がついた。 「初めまして。細川と申します。」 細川は落ち着いた口調でそう言うと、軽く会釈をした。いつものポーカーフェイスの彼の表情からは、緊張しているというふうには見えない。 「ああ。津山だ。君は非常に優秀だと聞いているよ。彼からね。」 津山はちらりと翔に視線を流した。 突然話をふられた翔は、驚いて津山を見た。 細川は相変わらず冷静に、 「いえ・・・・。」とだけ答えると、話をするりと流すと、翔に顔を向けた。 「じゃ、私はそろそろ。研修が始まりますので・・・・。」 細川は最後に津山に会釈すると、そのまま部屋を出て行った。そのあっけなさは、津山に失礼な印象を与えたのではないかと危惧するほどだった。 だが、津山はいつもと変わらない穏やかな様子で、翔は内心ほっと胸を撫で下ろした。 「じゃあ、ゆっくり報告を聞こうとするか。・・・結城君、掛けなさい。」 翔が腰を下ろすと、津山は早速切り出した。 「結城君、あまり顔色が良くない・・・・。無理などしていないだろうね?」 「最近少し忙しかっただけなんです。大したことでは・・・・」 津山は心配そうな面持ちで翔を見た。 「関口のことかね?」 津山はどうやら、うすうす気がついていたらしい。 「聞いたんだろう?奴の病気のことを。」 「はい。・・・」 「そうか・・・・。なら何も気にすることはない。奴は自分で自分の生き方を全うするさ。奴は強い。・・・結城君は君のやり方で君らしい仕事をしてくれればいいんだよ。君は今までいろいろな経験をしてきた。そのキャリアは君の仕事に充分に反映されている。君は自分が思っているよりもずっと優秀だし優れた人物なんだよ。もっと自分を認めてあげなさい。関口は君になら自分の仕事を任せられると言っていたよ、以前に。・・・助けてやってくれないか。私は奴の思うままにやらせて悔いなく逝かせてやりたいんだ。ずっと苦楽を共にしてきた同志として。」 「はい。」 自分のやり方で自分らしい仕事を・・・・津山のその言葉は今まで迷っていた翔を導くものだった。 いつも自分は人より劣っていて何をしても駄目な人間なのだと思ってきた。小さな自分の家庭の幸せさえも守れない男なのだと。 人に置いていかれないよう、取り残されないようにただがむしゃらに仕事にのめり込んだ。 胸に浮かんだのは関口のあの一言だ。 「ありがとう」と彼は言った。この言葉にはいったいどれだけの思いが込められていたのだろう。 今の自分ではその本当の思いさえも充分に理解することすら出来ないが、せめて自分の出来る精一杯を彼に、彼の理想の実現のために捧げたいと思うのだった。 |
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